デイサービス てのひらの家 瀬戸内市,てのひらのいえ

作文(エッセイ)部門 ≪ 一般部門 ≫

≪ 一般部門 ≫
最優秀賞

 

「ノープロブレム!」
山形県 美容師 佐藤 敦子さん
デイサービスに行きたくないと言ったひいばあちゃん。自宅介護するひ孫の私は、ひいばあちゃんが、デイサービスに行ってる間、へやのそうじしながら考えてみた。車いす、寝たきりの生活を彩るものは何色の優しさなんだろう?
デイサービスの方々は、ひいばあちゃんの手に触れながら、おはよう・ありがとう・またね…陽だまりの優しさでひいばあちゃんの心を包んでいた。
デイサービスに行くことで、同じ世代の方々とふれあって昔のことをよく話すようになった。
あったかい、おふろに入れてもらって…
あったかい、ことばのシャワーあびて…
あったかい、ごはんをおいしいと食べて…
ひいばあちゃんの心、少しずつオープンになって自分から、ありがとうと伝えていた。
その頃から、少しずつ認知も進み、身体も弱くなり、デイサービスに行きたくても行けなくなって、かわりに訪問入浴のスタッフさん、家に来てくれた。
ひいばあちゃん、誰よりもおふろが好きだった。決められた時間内だけれども、嬉しそうだった。いつも、帰るころになると「また来るからね。元気でいてね。」と、声をかけ手を握ってくれた。
ふれあうって、身体だけじゃなく心まで優しさ伝わって、人から人へ優しさの風を心に受け取るように、バトン渡されていた。
自宅で最期をむかえるまで、訪問入浴のスタッフさん、ひいばあちゃんの身体いたわってくれていた。
私は、一人だけで介護していたんじゃなくて、たくさんの人に助けられていた。お借りしてるエアベットに助けられ、ケアマネージャーさんのマネージメントのおかげで快適に過ごせて、デイサービスで出会った職員さんやお友達の方々のおかげて、ひいばあちゃんの心はさみしくなかったはずです。
訪問入浴のスタッフさんも、ひいばあちゃんの心ほぐしてくれて、心から幸せそうでした。ひいばあちゃんにも、心から感謝しています。四年間の介護生活の中で、閉ざされてゆくものばかりではなかった。困難さえも、手を取りあって一日一日を楽しもうとすれば、辛いことより幸せを発見することができたから。
ノープロブレム!ひいばあちゃんから、ありがとう、助かるよ…と言われるたびに、こちらこそ、ありがとう…と返す言葉の中にはまごころがありました。大切なものほど、目には見えず、失いやすく、もろく儚いものですが、ひいばあちゃんの手となり足となり口となって生きられたことは、私にとって幸せな時間と心の財産です。命の尊さを知れたから、今日も私は、一生懸命生きていけるのです。

優しさの色は、光に近い白。いつも、反射してく人生の闇さえ照らせるように…と☆
最優秀賞

 

「介護士さんとの約束」
石川県 神馬 せつをさん
明けてゆく空を仰ぎ、さわやかな空気を胸いっぱいに吸い込みながら新聞配達に汗を流していると、あの介護士さんの爽やかな笑顔が蘇ってきます。

私たち家族が乗る自家用車が、居眠り運転の大型ダンプカーに追突され、一家での楽しいドライブが、一転して不幸のどん底に突き落とされるという、悲しい出来事になってしまいました。
救急病院に運ばれ、半年後に意識を回復した私の心と体には、激しい痛みが待ち受けていました。
全身が複雑骨折し、バラバラになった肋骨が喉に突き刺さった状態で、辛い検査や厳しい手術と本当に大変でした。
しかし、手術の度に何度も精密検査を繰り返したせいで、普通なら発見されないすい臓のガンが見つかりました。
そのとき介護してくださった老婦人の言葉が、今でも忘れられません。
「あなたは大変な事故に遭われました。しかし、もし事故に遭わなかったとしたら、間違いなくガンで命を落としていたそうですよ。家族のみなさんが犠牲になって、あなたを守って下さったのでしょう」と。
その話を聞き、人間の命の尊さと家族の大切さを再認識しましたが、それでも将来の光が見えず、笑顔を忘れた暗い療養生活を過ごしていました。
そんなとき、先の介護士さんがまた話しかけてくださいました。
「楽しいから笑うのではありません。笑っているから楽しくなるのです。悲しいから泣くのではありません。泣いているから悲しくなるのです。辛いでしょうが、嘘でもいいから笑うように努力してみてください。きっと楽しくなると思いますよ」と。
「楽しくもないのに笑えませんよ」と、その時は反発し抵抗もしましたが、確かに笑っていると訳もなく楽しくなってきて、他の患者さんとも笑顔で話せるようになりました。
その後の長いリハビリ生活を経て、事故から七年ぶりに社会復帰するとき、私の肩をポンと叩きながら、その介護士さんが話してくださいました。
「人間の知恵や技能が無限であることを、あなた自身が証明してくれました。今度はあなたが、心や体に悩みを抱えている人々の無限の力になってくださることを約束してくださいね」と。

その介護士さんとの約束を守り、現在は高齢者施設で介護のボランティア活動などもさせていただいております。
日々の暮らしは大変ですが、生きることと、生かされていること、そして、なにごとにも感謝できる笑顔の人生も、まんざら捨てたものではありません。
優秀賞

 

「ありがとう、と言いたいのは
わたしのほうでした。」
栃木県 社会福祉法人明照協会 七井老人ホーム
主任生活相談員 菅又 恵美子さん
老人ホームで働き始めてから三十二年と半年がたちます。私は、老人の施設で働くとは夢にも思っていませんでした。それというのは、この施設の系列である保育園で働きたかったからです。しかし、その当時、退職する保母さんがいなかったので、理事長から「老人ホームで働いてみてはどうか。」と言われ、私も、お年寄りの方のお世話をすることも、やりがいのある仕事ではないかと思い、働かせていただくことにしました。
それから、私は必死に利用者様の生活のお手伝いをさせていただきました。しかし、利用者様と向き合っているうちに、利用者様から「若いのはダメだ」「若いくせに」など言われ始めました。その言葉を聞くたび、私の頬に涙が伝わっていきました。私は「お年寄りのお世話は向いていないのだろうか。」「仕事をやめようか。」など、考え込んでしまいました。「なぜ、一生懸命、利用者様の為に、頑張っても、いろんな事を言われなければならないのか」「どうしたら利用者様と、うまくいくのだろうか」と考えてみました。やはり、利用者様と私のコミュニケーションが、うまくとれなかったことに気が付きました。うわべだけの付き合いでは、だめだと思い、利用者様ひとりひとりの中に、自分をさらけだし入っていきました。すると、利用者様もいろいろと教えてくれたり、心配してくれたり、喜んでくれたりと、私の心の中に、入ってきてくれました。私は、感謝の気持ちで一杯でした。
それから私も、いろいろな事を経験し、現在は、主任生活相談員として利用者様ひとりひとりの悩みなどを聞きながら、利用者様が、毎日、楽しい生活が送れるようお手伝いをしています。
時々、ふと考えることがあります。時代が、変わって行くように、三十二年前の利用者様と現在の利用者様は、いろんな面で、違ってきています。例えば、入所の理由も違ってきているし、利用者様の考え方も違ってきているように思うことがあります。でも、変わってないのは、今も昔も、利用者様が人生の最期を迎えるとき、穏やかな顔で、目には、ひとつぶの涙、それが目じりから頬に伝わり落ちていき「ありがとう」と、唇が動いている。それを見るたび、私は、いつも思うのです。この利用者様に対して後悔のない介護ができたのだろうかと思うと、涙が自然と出てくるのです。
そして、人生の先輩として、「喜び」「感謝」「命の尊さ」「やりがい」を、施設の生活の中で、私に教えてくれました。だから、今の私は、胸をはって、この仕事を誇りに思いたい。そう、教えてくださったのは、利用者様です。だから、ありがとう、と言いたいのはわたしのほうでした。
入選

 

「義父と梅干し」
新潟県 主婦 村田 玲子さん
梅雨が明けて。朝から青い空が広がると、私の真夏の一大イベント、梅干しづくりは最後の工程の天日干し作業に入る。
今年も大きなカメの赤い紫蘇の汁に手を浸すと七年前の義父との別れの日のことがよみがえってくる。義父が亡くなる前日もこんな絶好の作業日和だった。私が庭にいる気配を察したのか、義父はベッドの中からまるで七分おきの陣痛のような間隔で「オーイ、レーコー、レーコー」と生来のしっかりした大きな声で私を呼ぶ。その都度私は「ハァーイ、私、ここにいますからね」と立ちあがって顔を見せ、又梅を一粒ずつ丁寧にザルに並べる作業を続けていた。
その頃の義父は、昼夜逆転生活で目を覚ますと「オーイ、カズヒコー、レイコー」と夫や私の名をこれといった用事がなくとも呼ぶ。
夫と私は交代しながら義父の枕元に駆けつけるという生活を春から送っていた。
風邪ひとつひかず、医者いらずの強健な身体の持ち主と自他共に認めていた九十四歳の義父だったが、歩行や排尿の困難、腰の痛みなどを訴えたので病院で検査を受けたところ、前立腺ガン、それも末期との宣告を受けてしまった。医師から手術は年齢的に無理だが、入院しますか、どうしますかと聞かれた時、私たち夫婦はおじいちゃんには呑みたい物を呑んで食べたい物を食べて逝ってもらおうと最期を自宅で迎えることを決断した。
義父がまだ元気だった頃、いつも「俺はどこへも行かない。この家で死ぬんだ」と病院や施設での最期を断固拒否していたからである。それは、こよなく酒を愛し、わがままで癇癪持ちで、他人との同室はがまんならないということを本人が一番よく承知していたからである。その言葉どおり、一度もショートステイやデイケアなどの施設を利用することはなかった。
義父のガンの診断後、介護度は三から一挙に五になり、介護スタッフの一日二回の訪問や入浴車の利用などでずい分助けられた。
日中は鎮痛剤が効いて静かに眠っていることが多いのに、今日は珍しく目を覚ましていて、どうしてこんなにひんぱんに呼ぶんだろうといぶかしく思いながら私は、両手を紫蘇の液で真っ赤にしたまま、義父の枕元に行った。
義父は静脈の浮き出た白い両手を差しのべて「玲子、どうもありがとう、ありがとう」と言った。予期せぬ義父のその言葉に私は驚き、思わずその両手を握りしめて「こちらこそありがとう、いいおじいちゃんでしたよ」と私は声をあげて泣いてしまった。
汗と涙と紫蘇の汁で私の顔は真っ赤にグチャグチャになった。
『終り良ければすべて良し』この言葉に私は癒やされる。今年も梅干しは赤く、しょっぱく美しく仕上がった。
入選

 

「おばあちゃん、だんだん」
島根県 美容師 菅野 真由美さん
「菅野さんが、数日前から食事を受けつけなくなったですが…。」と、義母が入所しているグループホームから、一本の電話がかかって来ました。
ホームにかけつけると、訪問医師は、「老衰です。自然死をお望みと聞いておりますので、ここで看取ってあげて下さい。水分が取れなくなってから一週間ぐらいでしょう。」と、私にそう言い残して帰って行きました。
三週間後の五月五日には、義父の二十五回忌の法事が控えていました。
その日は、ちょっとしたボタンの掛け違いから、夫の姉妹との間に、あつれきが生じ、義姉妹全員が法事に欠席という緊急事態が起きていました。その事が、私の心を重くしていた矢先の出来事でした。
私は、その時、もしかしたらこの日が義母のお葬式になるのでは?…。否、なって欲しい。ふと、そんな思いにかられました。
不謹慎な私に悲愴感は全くありませんでした。
即断即決。私は早速、部屋のカレンダーをめくりました。ここ松江は火葬をしてから葬式が通例なので、五月五日に葬式だとすると逆算して、死亡予定日は三日。父の命日が六月十三日だから、義母の四十九日は義父の法事が、一緒に出来るかも知れない。
もしそうなったら、どんなに良いだろう。みんなも、きっと全員、出席するはずだ。これが仲直りのきっかけになれば言う事はありません。そんな風に考えていたら、期待に胸がふくらみ、何だかワクワクしてきました。
今は、何としても義母に五月三日まで頑張ってもらうしかありません。
私は付き添いをしながら毎日、祈りました。
そんな私の思いが義母に伝わったのだろうか?義母はタイムリミットの一週間を過ぎても、まだ自分の体を燃やしつづけ、それをエネルギーにして、さほど呼吸をあらげるでもなく静かに死と向いあっていました。その姿は崇高で神々しくさえありました。
私は五月二日の夜、夫を夜間の付き添いに誘いました。夫が付き添って安心したのか、義母は日付けが変わるのを待っていたかの様に、三日の午前零時三分息を引き取りました。
私の予感は的中してしまいました。
看取り介護に入ってから、義母は自然死の素晴らしさを身をもって教えてくれました。

そして、最後にぴたりと、五月三日に亡くなるという奇跡まで起こしてくれました。
その奇跡のおかげで、私達と義姉妹の間に出来ていた溝は自然に埋まり、六月十五日に二人の法事が、和やかに営まれました。
義姉妹との間に生まれた数々の確執も、義母の介護をめぐって起きた見解の相違からでした。終りよければ、すべてよし。義母を送り、これで一件落着。何もかも払拭できました。義母は認知症を患い、多くの事を忘れましたが、母の心だけは忘れていなかった様です。それが奇跡を起こしたのだと私は信じています。おばあちゃん、だんだん、だんだん。
入選

 

「一呼吸」
岡山県 社会福祉法人敬仁会
特別養護老人ホーム白亜館
介護士 谷口 渉美さん
「人の一生はどのくらいの長さだと思う?」私が介護の学校に通っていた頃、恩師の先生の授業で題材になった事があった。
誰も答えられず静かになった教室で、先生は「人の人生は一呼吸だと教えてもらった事がある。人は生まれる時に息を吸って、死ぬ時に息を吐いて死ぬ。人の一生の長さは一呼吸なんだよ。」と語ってくれた。
その話を聞いた時の私は、「へぇ、そうなんだ。なんかすごい話だなぁ。」としか思わなかった。
そんな私が介護士になって一年が過ぎた頃、私は初めて目の前で死というものに出会った。その人は末期のガンだった。
家族の方の希望で施設で看取りとなっていた。
昼も夜もずっと強い吐き気と闘い、ハァハァと荒い息遣いをしながら苦しむその人の背を、たださすり続ける事しかできないもどかしさから、トイレの中に一人隠れて泣いたのを今でも鮮明に覚えている。
吐き気が少し落ち着いた時、二人で温かいお茶を飲んだ。
再び強い吐き気が始まる前にと急いで入れたそのお茶は、ちょっと薄くてあまり美味しいとはいえなかったけれど「美味しいわぁ。ありがとう。」と笑ってくれた。
その二日後、その人は静かに息をひきとった。
「待ってるよ。」と私が帰る時ににぎってくれたその手は、もうにぎり返してくれなかった。
水がたまった肺からコポコポと空気が抜ける音がして、看護師が家族の方に呼吸が止まった事を伝えた瞬間、泣き崩れる家族の方の声で私は「え?」と我にかえった。
なんて突然なんだ。なんてあっという間なんだ。なんで私は何も出来なかったんだろう。

そう思う私の心に恩師の言葉がよみがえった。
「人の一生の長さは一呼吸なんだよ。」
あの時実感のなかったその言葉が、私の中で身近になった瞬間だった。
あの日から二年、私は介護士になって三年目を迎えた。
あれから幾度もの出会いと別れを経験した。今、こうして日々を過ごしていく中で、関わる利用者の方達の一呼吸という重みを感じている。
一人一人のその一呼吸に、今日まで生きてきたというその人の人生の重みがあるのだと、今ならよく分かる。
明日には止まるかもしれないその一呼吸を支え、その人生に関われる介護という仕事は、とても尊く誇れる仕事だと思う。
握る手の温かさ、「ありがとう。」と向けられる笑顔のぬくもり。
日常で感じるその一呼吸の尊さを胸に、私は日々を大事にしていきたい。
一呼吸、一呼吸が愛おしく思う。
その事を教えてくれた介護という仕事が、私はとても大好きだ。

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